安倍首相訪印に向けて:インパール作戦とは何ぞや?
前回の記事からやや時間が開いてしまいましたが、安倍首相のインド訪問の概要が徐々に見えてきたのでしょうかねぇ。
【前回の記事:特別戦略的グローバルパートナーシップ】
【安倍首相のインパール訪問報道】
www.shimotsuke.co.jp引用元:https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/249728
デリー、アーメダバードは行っているので、首相クラスが訪問するなら、バンガロール(個人的願望)・ハイデラバード・インパール(歴史的背景をもとに)らへんかなぁと思っていた矢先、このインパール訪問という報道が出てきて、ある種、日印関係にとって「インパール作戦」の舞台となったインパールに訪問するのは歴史的に確かにという印象を受けます。
ということで、首脳会談の各サマリの前にこの「インパール作戦」について振り返ってみようと思います。
1. インパールの地理的位置
まずはこの作戦について概要見る前に、インパールの地理的位置についておさらいしてみましょう。
場所としては、北東7州エリア、マニパール州の州都となります。ミャンマーとの国境線になりますね。東側にアラカン山脈(ナガランド州からミャンマー南部まで)が広がっています。
【地図】
引用元:Google Map
(紫色がアラカン山脈概略を示したマーカー)
2. インパール作戦の概要
では、インパール作戦の概要を見てみましょうか。
- 時期:1944年3月~1944年7月
- 戦線エリア:ビルマ方面
- 参加兵力:大日本帝国陸軍(約9万人)、大英帝国軍、イギリス領インド軍(約15万人)
- 日本軍の戦略目標:援蒋ルートの遮断
- 作戦行程:アラカン山脈を抜いて、インパールを占領する。短期決戦(3週間)
援蒋ルート:中華民国(今の台湾)として大日本帝国と日中戦争を戦っていた蒋介石に対する連合国の補給支援ルートの総称。ビルマ・インド間にも存在して、インパールがイギリス側の拠点となっていました。
結果:日本軍の壊滅的敗北
敗北の原因:兵站崩壊、雨季による進軍停滞、イギリス軍の強烈な反攻
上記の地図にもあったように、アラカン山脈を一気に抜いて短期決戦でインパールを陥落せしめるという作戦でしたが、イギリス軍の頑強な抵抗にあい、補給が切れ、兵站も崩壊して戦闘での戦死よりも撤退戦での戦死が多いという状態になってしまったようです。
3.インパール作戦関連のメディア情報(書籍、ドキュメンタリー)
3-1失敗の本質日本軍の組織論的研究
この本は外せないかと。全般的に太平洋戦争(大東亜戦争)にて日本が負けた戦い(ミッドウェー海戦、沖縄戦、インパール作戦、ガダルカナル作戦、レイテ沖海戦)と ノモンハン事件を焦点に充てて、日本軍の「戦い方」で何がいけなかったのかを分析して「負け」の原因を突き詰めています。負けた原因を、戦力の逐次投入、人間関係を忖度した作戦立案、過去の成功体験への過度の拘り等等と分析しており、学びが多い一冊となっています。
3-2無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録
戦争のドキュメンタリーとしてはNHKも外すことはできません。圧巻です。作戦従事者からのインタビュー、当時の機密資料から積み上げた「インパール作戦」の全容が浮かび上がってきます。
いくつか引用してみましょうか。
「杉山参謀総長が『寺内(総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。結局、杉山総長の人情論に負けたのだ。」(眞田穰一郎少将手記)
冷静な分析より組織内の人間関係が優先され、1944年1月7日、インパール作戦は発令されたのだ。
「(1人でいると)肉切って食われちゃうじゃん。日本人同士でね、殺してさ、その肉をもって、物々交換とか金でね。それだけ落ちぶれていたわけだよ、日本軍がね。ともかく友軍の肉を切ってとって、物々交換したり、売りに行ったりね。そんな軍隊だった。それがインパール戦だ。」(第31師団 衛生隊 元上等兵 望月耕一さん(94))
引用元:https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20170922/index.html
4.インパール平和資料館
インド側でも忘れちゃいけない戦争の記憶として残そうよ的な報道もちらほらあります。当時地元から志願してイギリス軍で戦った方が語り部となっているようです。
引用元:Battle of Imphal & Kohima: India’s forgotten war
加えて、日本側でもこのインパール作戦の記憶を風化させないためにも、「平和資料館」を作ろうという動きがあり、結果2019年6月に平和資料館ができたという次第です。
友人に見せてもらったものですが、おそらく「軍票」と思わしき資料。ビルマ戦線なので、ルピーとなっていますね。
軍票:大日本帝国軍が通貨の代わりに使用していた票。必要な資材や労働力の代償として発行されていた。支払いの代替手段として使用されていました。
*戦後の補償については、サンフランシスコ講和条約で連合国が請求権を放棄したので日本政府は補償しなくていいということになっているようです。
とここまでで、後は実際に平和資料館に行って現場を見ないと感じ方やどんな雰囲気なのか分からないので、一旦筆を置きます。インパール作戦の概要が紹介できていれば幸いです。